言語とか自然選択説とかグローバリゼーションとか皇室制度とか

和製英語の適当さが大元の言語の性格に帰っただけの話。池上彰から基礎データすら払い取ってしまったような文章。ただ、偏向はしていない。

 

和製英語には省略形(パソコン)とか造語(キャッチボール)とかいくつかの分類があるが、線引きできないような曖昧なものも結構多い。むしろ本来の用法を彫ったカタカナってあるのか?言語というものは日々変化し続けるのだから翻訳に限らずニュアンスが異なって当然、異国の影響を受けての変化が著しくなるのも時代的なもののように思う。

 

「それ和製英語なんだよ」なんて自慢気に指摘する人などいない。指摘されるまでそれが和製英語だと気づかないほどに日本語として浸透している場合はやはり多く、ハッとする人もいるのだろうが、その気づきは和製英語に対してのものではなく、実はすでにわかっていたということに対してだ。

 

違いの存在を認識しているのにどう違うのかが説明できない(意識していない)という、知識を身につける場面においての初歩的な適当さは意図せずとも誰にだってあるだろう。もちろん分類が曖昧なように、開拓部分が残されていないというのもその大きな理由だ。発生を明確にするくらいしかない。多分。

 

ただ、それは理解が浅いからだ、外国人と会話できるレベルにないからだ、とツッコミを入れてはいけない。極東の日本に心情を察してもらう権限などないのは当然として。語彙そのものの量・質は文化やその言語ごとに異なるのだとテーマから外れてもいけない。

 

キリンは首が長いから生き残ったのか?生き残るために長い首を得たのか?

 

今ここで言いたいのは方言が象徴的というか、本質そのものだ。居心地の良い形態へと変化し続ける。時には他言語とごちゃ混ぜになりながら、国内に限定しても京都を目指した地方の大名らによってそれがなされた。その変化、大多数への反対は許されない(逆も然りで新たな言い回しも受け入れられなければ消滅)。ナウが中心にあるある意味乱暴な単語が生まれようとする。

 

この場合耳障りは良いものなのか?悪いものなのか?

自然分娩?帝王切開?

 

くにがまとまれば言語も強引にまとまるだろうか。江戸、東京は一体何の権限があって一方言を共通語として押し付けているのだろう。マジョリティ。

 

言語という恣意的なツールは進化する(してしまう)(させられる)。

 

日本語の定義って?はて、グローバリゼーションとは??

 

 

前時代的な要素を増していくモノに感情的な理由をあれこれつけて残そうとする非合理性は好みだが、この話とは関係がない。天皇陛下万歳!

 

言語についての専門知識があるわけではないので結論はない。無責任すぎる(ここは笑うところです)。

 

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※イミッヂ