サボタージュ

最近のブログ記事、本当にダメ。サボり。書いてないのもそうだけど、中身を外から無理やり引っ張っている。もっと内なる循環というか、読み手に委ねる文章でなければならない。断定してはいけない。

 

その事象について書くのはまだいいとして、自分から探しに行くのではなくて自分に入り込んできたものを出荷しなければならない。養殖モノはダメ。粗悪品。環境を操作しやすいために天然モノより質を高く提供できる魚なんかも種によってはあるらしいが、このブログにおいてはそれではダメなのだ。なぜかというと、そう決めたから。

 

では内側から湧き出る文章とは何か。わからない。思考は必ずしも自由意思である必要はないしそんなことはありえない。あなたは意思と行動が一致していますか?ほんとに自分の意思で決定していますか?その意思は純粋ですか?

 

ただ一つ、書き手の顔が見えるというのは結果として表れてくる。強い断定の主観は読み手から距離が生じてしまう。惰性は読み手が照らし合わせて評価してくれる。もっとも、このブログのアクセス数には気をかけてはいけない。

 

国語の読み物の授業が退屈なのはだいたいそういう理由だ。つまらない。普遍的な核心は響くかもしれないし響かないかもしれない。読みたいところは何回でも読み込んでいいしわからないところはわからないままでもいい。パターン化された授業上では推理小説が適していると思う。というか、一人で読ませろ。音読と発声の機会だけは良い。

 

ゲームをしている場合ではない。撫でる文章をアウトプットするには、固有名詞をできるだけ排除して、耳をふさぎ、よく眠る。